『萌える男』を読んだ
萌える男 (ちくま新書) | 本田 透 |本 | 通販 | Amazon
ある日Amazonを開いたらこの本をおすすめされた。 ここ数年萌えアニメを多く見て「萌え〜」など言ってたが「萌え」概念について長文で語っているなんて一体どんなことが書いてるんだろう…と気になり読んでみた。本の概要をみるとなにやら真面目そうな内容にみえる。
いまや、数千億円ともいわれる「オタク」市場。経済界も一般メディアも、もはや無視できない存在となった「萌え」の世界。ではなぜ、オタク男たちは二次元のキャラクターに「萌え」るのか。そもそも「萌える」という行為にはどういう意味があるのか。「萌える」男に純愛を求める者が多いのはなぜなのか。こうした疑問に、現代社会論とジェンダー論、そして実存の観点から答える、本邦初の明快な解説書。
実際に読んでみると、二次元に萌えている男は恋愛ができないことからの逃避であると社会的に冷たい目で見られがちだが、萌えるという行為はルサンチマンから生じる暴走を抑えるための内向きの自己救済行為であり…恋愛が商品化した80年代以降でも「純愛」を貫いているのは萌えるオタクたちのほうなのだ…といった作者の主張が熱く語られている。
内容の正しさはともかく、この本からは「俺たち萌えオタクは社会で生きづらさを感じている、だが本質的には俺たちこそが正しいのだ!」といったオタク以外への敵対心を感じる。多分現代の萌えオタクがこれを読んでも(なんでそんなに熱くなってんの?誰と戦ってるんだ?)と思いそうだ。そう、この本が書かれたのは2005年。おそらくこの頃は萌えアニメオタク=犯罪者予備軍・異常者という風潮が今よりずっと強かったのだろう。令和の時代にこの内容を読んでもあまり響かないわけだ。
自分も普段アニメを見て「萌え〜」とか言ってる側なので自分ごとに当てはめて考えてみたが、恋愛至上主義な価値観に参加できない負の感情からの救いを得るためにアニメキャラに萌えているのかというと…そうではない気がする。まともに恋愛ができてないのは確かにそのとおりなんだけど、もっと表面的な、絵がかわいい、画作りの技術がすごい、声優さんの演技が心地よい…という感覚で萌えアニメをみている。周りのアニメとか見てる知り合いを思い浮かべても『萌える男』に書かれているような雰囲気は感じられない(本心はわからないが)。あくまで趣味のひとつとしてのアニメという感じがする。
うーむ、この温度差はなんだろうな?と思ってネットを彷徨っていたらオタク論の死について という文章を見つけこの気持ちがうまく言語化されているように思えた。
かつてのオタクたちの多くは、オタクであることについて、社会的なのか実存的なのかは知らないが、なんらかの居心地の悪さを抱いていた。その居心地の悪さが、オタクとはなにか、なんであるべきか、という問いを動機づけていたのである。
しかし、今はどうか。現行のオタク文化は、なんとなくそういうものが好きなユルい愛好者たち、まだ自分がなにをやっているのか自覚しないがまま楽しくやっている中高生くらいの子ども、意識的に思考を停止した萌え豚、これらの人々の主導のもと、展開している。そこにはもはや、かつての居心地の悪さはない。そして、居心地の悪さの消失とともに、オタク論を問おうとする動機もまた、なくなっている。
『萌える男』はまだそのようなオタク論が活発だった時代に書かれたものだが、今となってはオタクを取り巻く環境は変わった。裾野が広がりライトに趣味として萌えアニメを楽しむ時代になっている。この新世代側のオタクからすると『萌える男』時代は遠い昔の物語のように感じる。そういった意味では昔はこういう時代もあったんだな興味深いなぁと歴史を読む本としては面白いと思った。また、本文中に出てくる作品として『電車男』をはじめ『ONE 〜輝く季節へ〜』『Kanon』『シスタープリンセス』などがあり、当時の有名作はこんな設定で、こんな解釈をされていたのかと知れて面白い。