アニメ・ディスタンクシオン
『ディスタンクシオン』という本の解説動画を見た1。 きっかけはフォロワーさんのnoteで、趣味についての話と書いてあり興味が湧いたからだ。
私の趣味はこのブログではおなじみ「アニメ」だが、アニメ趣味については日々思うことがあった。 質アニメの定義だとか、好きなアニメは?と聞かれると悩むとか、 好きな作品について詳しい必要があるのかとか、アニメの内容ではなくアニメ趣味そのものをテーマにした記事をこのブログでも何度か上げている。
そこで、ディスタンクシオンである。 趣味なんだから本人の自由意思で好きなことをやってるだけ、という認識は違っていて、趣味は人間同士の闘争の場であると著者ブルデューは主張する。 趣味の世界ですら何が格上だとか何が外聞がいいとかを気にしていて、場(集団)において自分のポジションを確立し、その世界で勝つために好きなものを選んでいるというのだ。
解説動画では、スピルバーグが好きと表明するのは気恥ずかしいから好きな映画監督を聞かれたらもっと通っぽい答えを探してしまう、という例が出ていた。 これはもちろん映画でなくてアニメでも当てはまるだろう。この作品は高尚で、あの作品は低俗だなんて言い争いは昔からネットでも度々目にしてきたので、 なるほど今まで見てきたアレもコレもディスタンクシオン!? と面白くなってくる。
また、ある作品をどれくらい深く理解できるかは視聴者により差が出る。 アニメという多くの芸術のうちの1ジャンルの中ですら文化資本(環境や育ちによって積み上げてきた経験や知識)によって振り分けされてしまう。 「ま、君たちのような無教養にはこの作品は理解できないだろう」と直接言われたことはないが、私も無意識的に視聴する作品選びや作品の評価に いままでの習慣や教育の積み重ねが影響しており、うっすら階級付けされているのかもしれない。
どうせ闘争になるなら勝ちたいというのが人間の性で、上の階級に行きたいが故にアニメで引用されがちな古典等を勉強しようかなとか思い始めるわけで、 知識を増やすことは良いのだが闘争に勝つぞ上に行くぞと必死になりすぎると実体が伴わない嘘の高尚に騙されて自滅する可能性もある。 更に言うと高尚なんてものは社会が高尚"ということにしたい"だけであり、普遍的なものでもないから趣味の象徴闘争も程々にしたほうがいいだろう。 一方で、闘争から逃げるという闘争の仕方もある。趣味や好きな作品の高尚さとか馬鹿らしいし、知識人ぶるのもダサいよ、といったムーブだろうか。 しかし、これはこれで知識をつけようとしている人を蔑むという闘争行動のひとつであり、闘争は続く。
では我々は趣味の闘争から逃れられないのか。そうでもないと私は考えている。 たとえば……エッチなコンテンツ。美的性向ではなく性的嗜好は階級社会化されておらず比較的フラットではないだろうか? という光明だ。 いや、性的嗜好ですら実は育った環境によって大きく変わり、エッチ文化資本の差が生じ、もしかすると我々はエッチコンテンツを選ぶときでさえ深層で(こういうので興奮しておけばSNSで通っぽく見られるかな)といった風にエッチ象徴闘争をしていたらどうしよう? そもそもエッチ趣味は社会的に共有するものではない? 了解!
Footnotes
原典は読みきれる気がしなかったので、100分de名著に頼った。 100分de名著 ブルデュー“ディスタンクシオン” (1)「私という社会」 - 動画配信 ↩